劣情

「ふあぁぁ……。はー……」
 盛大なあくびと、大きなため息がガルグ=マク大修道院の門に満ちてゆく。いつも通りと言えばいつも通りの光景ではあるが、今回ばかりはこれにもれっきとした理由がある。彼を疲弊させた、理由が。
「……盗賊の討伐中に、王国軍の進軍を受けるとはな」
「国境近くでしたし予想の範囲内ではありましたけど、数が、……くぁ」
「お疲れ様。すまなかったな、無理をさせて」
「いえ……」
 戦時下、アドラステア帝国内部には盗賊団の襲撃が多発している。他国で軍からあぶれたはぐれ者の一部が生活に困窮し、金品を求めて賊に落ちぶれているのだ。
 同盟は一枚岩ではないし、王国は気候の影響で元々貧しい土地も多い。それに比べると帝国は気候も安定しており、資源も豊富。この戦時下においても困窮を極めることなく過ごしている。それ故に狙われ、民家にも被害が出ている状況。
 そういった事情もあり、帝国軍は時折大規模な盗賊団の出現に対処することがあった。
 今日もそのつもりで向かったところ、狙い澄ましたかのように王国軍が攻め入ってきた。実際、誘い込まれたのかもしれない。率いる将が名のある者ではなかったことが幸いして苦戦はせずに済んだ。だが、思いもよらぬ連戦となった上、兵数で押し切るような戦法で攻め立てられては武器や薬の消耗も激しく。魔法を使用する兵種も、文字通り魔力が尽きるまで戦いに精を出すこととなってしまったのである。
 リンハルトの魔法の腕は軍で一番だ。重装兵の討伐、怪我人の治療に回復、仲間の転移。指揮を執るベレトも申し訳ない、と思いながらも、リンハルトに指示を出さざるを得ない状況に甘えてしまった。
「もう寮に帰ってそのまま寝るか?」
「いえ、このままじゃ眠れないので汚れを落とさなくちゃいけませんし、あと……」
 リンハルトの言葉は、くうぅ、と何かが鳴くような音によって遮られる。視線が思わずそちらに向く。上質な生地でできた衣服の向こう側、着衣でも細く見えるその身体の内部から、その音は鳴っていたようで。
 ベレトが目を丸くして視線を上げれば彼は肩をすくめる。
「この通り、おなかが空いているので」

 *

 リンハルトは少食だ。長身ではあるのだが、細身で、体力もあまりない。五年前——彼がまだ学生であった頃に比べると幾分か体格がよくなったようにも思うが、それも否が応でも戦場に駆り出されているが故。食事量は大して以前と変わらない印象であった。研究や昼寝、読書などに没頭して食事を抜いてしまう癖も健在だ。
 だからベレトのほうから食事に誘うことは多くあったのだが、今回はリンハルトから食堂に行きたがった。空腹を自ら訴えるのも珍しい。驚きつつもベレトは当然腹が減っていたので向かうつもりであり、承諾する。
 しかし、食堂で各々好きなものを頼んで席についた矢先、ベレトは困惑した声を上げた。
「……そんなに頼んで、食べ切れるのか」
 机に広げられた、皿、皿、皿。およそリンハルトが食べ切れるとは考えにくい量の皿が、二人の目の前にはあった。これは、ベレトの皿だけではない。
「いやあ、魔力消費が激しいからでしょうかね。ものすごくおなかが空いていて。食べられるとは思いますよ、貴方が不在の間も、たまにこれくらい食べることもあったので」
「そう、なのか」
「ええまあ。ではいただきましょう」
 リンハルトはベレトの言葉を意に介した様子もなく、平然と食事を始めた。それに倣ってベレトも匙を握りつつも、視線は自然と正面に向かってしまう。
 普段はあまり口にしない肉料理を、普段よりも大ぶりに切り分けて口に運ぶ。当然大きな口を開けて。あくびをする様はよく見かけるが、食事の際にこれほど大きな口を開けるのは初めて見た。だからといって所作が乱れるわけではなく、育ちのよさが滲み出る美しい仕草で、料理が次々とリンハルトの臓腑へと運ばれ、血肉になってゆく。咀嚼し嚥下するたびに喉元が蠢く。暑いのか、袖を捲り、首元の釦を緩め、長い髪を掻き上げ、ふう、と息を吐く。かと思えば、今度は麵包に手が伸びた。こちらも普段より大きく千切り、赤々とした口の中へと投げ込まれてゆく——。
 ごくり、と思わず喉が鳴った。
 視線を下げ、ベレトは自らの皿に手を伸ばす。食事に集中できないなんて初めてのことだった。暑い。誤魔化しきれないほどに、頬が、じんわりと火照る。
 色っぽいと、思ってしまったのだ。普段とは違う表情に、仕草に。これは、劣情、だ。
「どうしたんです、先生? 見たことない顔してますが」
 突然声をかけられ、目を合わせないままに「どうもしない」と答えた。平常を装えたかどうかはわからない。だが、こんな感情を知られたくはないと思った。
 その直後、今にも鼻歌を歌い出しそうなほど上機嫌な声音で「先生って食事風景に色気を感じる性質だったんですね」などと言うのが聞こえて、彼の観察眼の前ではまともなフリなど無意味であったと知るのだが。