兎に追われる

「こちらの世界には不思議なことに、先生がたくさんいらっしゃるんですねえ」
 のんびり、と形容するのが一番しっくりくるであろう耳馴染みのよい声色は、背後からの奇襲であってもベレトを驚かせることはなかった。むしろ、頭の中に住まう、としか表現しようのない少女の言葉よりもゆったりと、心地よく耳に届く。
 振り返り、まずは見慣れた服装ではないことを確認。そういえば春祭りの時期だったか、と、幾度かの季節を過ごしたこの異界での慣習を思い浮かべる。器用に中身を抜いた卵の殻を飾り付け、兎の耳や尾を付けた英雄たちが集う祭り。意味合いや由来にはあまり詳しくないが、華やかで楽しそうだなとは思う。
「君は新しく喚ばれたリンハルトか」
「ああ、はい。もう一人僕がいる、とは聞いているので、そう形容するのがいいかと思います。変な気分ではありますが」
「それには全く、同感だ」
 春祭り専用の衣装に身を包んだ彼の言葉にベレトは同意する。冒頭のリンハルトの言葉通り、この異界には「ベレト=アイスナー」が複数人存在しているから。
 リンハルトが大きな枕を抱えたまま視線を移した先。そこには冬の頃に異界へやってきた赤い衣装のベレトがいる。ベレス、と名乗る、ベレトと同じく士官学校の教師を務めていたらしい女性と雑談に興じていた。原理は不明だが、ベレトではなくベレスに師事していたという生徒もこの異界にはちらほらと見受けられる。
「……君の世界の『先生』は、俺なのか」
「え? あ、はい。そうですが」
「そうか」
 きょとんとした顔。当たり前のように頷かれてなんとなく、ほっと胸を撫で下ろす。そういえば彼はベレトを一目見た瞬間に「先生」と呼んでいたのだった。ベレスに教わっていたのなら彼女のほうに声をかけていただろう。この異界では彼女も複数人存在している。
 不可解そうに首を傾げるリンハルトに、ベレスの存在をやんわりと説明する。あまり詳しいことはベレトにもわかってはいないし、それ以上に、様々なことを説明するのは問題があるのだ。例えば目の前にいるリンハルトの世界ではまだ起こっていない出来事、だとか。
 ベレトは今の姿で召喚をされているが、どうも複数の『フォドラ』の記憶を有しているような節がある。同じようにベレスもそうらしい。だから二人揃って言葉には気を付けよう、という話になった。五年後の皇帝・国王・盟主の姿がある理由なども、彼らが生きる世界に何があったのかも、話すことは決して許されない。
「よくわかりませんけど、とにかく話せないこともある、ってことですね。わかりました。詮索すると余計に面倒そうですし、僕も興味は持たないことにします」
「ああ、それがいい」
「それに。先生たちの元の世界がどう、なんて話よりも、僕は先生たちの身体がどうなっているのかのほうが気になります」
「え」
「ほら。複数人存在しているけれど違う姿や武器を持つってことは、個体差が存在しているってことでしょう? 身体能力や、紋章の力なんかにも違いがあるのかも」
 調べさせてくださいよ、と好奇心に満ちた瞳が迫る。それに合わせて、頭上の長い耳がぴょこりと跳ねた。
「ま、まだ早い」
 思わず咄嗟に口を付いて出たのは、女神の塔でリンハルトから興味関心を寄せられた際に発した言葉と同じもの。以前、先にこちらへ来ているリンハルトにも言ったような気がする。あまり彼に迫られると、ベレトは困ってしまう。
——何故なら、自分はどの『フォドラ』でも将来的にはリンハルトと結ばれる記憶を有しているベレト、だからだ。

 跳ねないはずの心臓を押さえ付けながら、リンハルトの追随を逃れるべくベレトは逃げ出した。最終的に追っ手が更に増えるのは、この数分後のことである。