初恋のゆくえ

「初恋は実らないっていいますよねえ」
 うとうと、微睡の中。講義の合間の休憩時間。覚醒と夢の狭間で聞こえたのはそんな言葉だ。そんなの迷信だろう、大抵は初めての恋慕など自身の幼い頃に抱くものだから、それが叶うことなく終わるだけ。口には出さず、心の中だけでその言葉を否定する。
 初恋は、実らない。普段ならそんな話、気にも留めなかっただろうに。
 リンハルトは伏せていた上半身を起こすと、くあ、と小さなあくびをひとつ。そもそも貴族家の嫡男が「恋」について思いを馳せるのもおかしな話かもしれない。恋愛結婚をする者も確かにいるだろうが、大抵婚姻には家柄だとか紋章の有無だとかが重要で、跡取りともなればその点は更に重視される。普通は、無縁なものなのだ。
 そんな無縁であるはずの言葉が妙に引っ掛かった理由など、明白。リンハルトがまさに今、遅咲きの初恋の最中だからである。初恋、だなんて甘酸っぱい言葉で表現するものかどうかは不明ではあるが。
 基本的に。リンハルトの他人に対する興味は『紋章』から始まることが多い。彼に対してだってそうだ。紋章の有無が不明な段階から不思議な人物である、と評してはいたものの、大きく関心を揺るがされたのはやはり彼の持つ炎の紋章がきっかけ。それがなくとも惹かれたかどうか、というのは今となっては「たられば」の話なので、横に置いておく。
 ともかく、リンハルトの一番の興味関心はその紋章から、いつの間にやら彼自身の人柄や存在そのものとなり、今に至る。これがまたはっきりと自覚する何かがあったわけでもなく。ああ、これはどうやら「そういうもの」だ。と、ぼんやり理解した。生まれてこのかた恋などしたこともないので、正解かどうかもわからない。
 大体、おそらく。
 貴族の子息、しかも紋章持ち、ひとりっ子、内務卿の家系、嫡男。そういう立場で、好いた人間が同性であるなどというのは、立場のある人間——例えば己の父親のような——からすると、間違い以外の何物でもないのだろう。まあ、例え周囲から糾弾されたところでリンハルトにとっては大した問題ではない。正解か間違いかはリンハルト自身が決めることだからだ。
 ともかく、ぼんやりとした「恋」の自覚を得たもののどのように接するべきかはよくわからず、結局のところリンハルトはいつも通り彼と接している。実際、それが一番「心地好い」し。

 *

「先生の初恋っていつです?」
「初恋?」
 中庭で催される二人きりの茶会。今日はリンハルトの誕生日を祝う、という名目のもの。寒くなってきたこの季節であっても防寒対策を講じてまで応じてしまうのは、彼を独り占めし、彼と話す機会を逃したくないからだ。面倒くさがりのリンハルトがそうまでして応じる意味を、この目の前の人物が理解しているかは甚だ疑問だが。
 温かいうちに茶器を口へと運ぶ。適温を保たれた東方の着香茶の独特の香りが鼻腔を掠めた。それから、先程の問い。
 問いかけられた相手は口許に手を当てて考え込むような仕草。即答ではないということは心当たりでもあるのだろうか。独りでに浮かんだ思考でほんの少し心のざわつきを覚える。
「……そういったことは、考えたことがない」
 しばらくしてあった返答に、なにかを誤魔化されているな、と思う。考え込んでまで出すような回答には思えなかったからだ。しかし、突っ込んで聞いたところで望む返答が得られるとは限らない。リンハルトは「そうですか」とだけ相槌を打つ。
「しかし、どうしてまた急に初恋の話だなんて」「おかしいですか? 僕がそんな話をしたら」
「そう、だな。ドロテアやヒルダから話題に出るならともかく、リンハルトからそんな話が話題に上がるとは思わなかったから……」
 確かに。ベレトの言うことは最もだ。リンハルト自身も「らしくない」と思う。
「いやあ。どうやら初恋は実らないらしいので、先生はどうだったのかな、と」
 先日。この言葉を反復するようになったきっかけの話題をぽろりと吐き出す。ベレトは相変わらずのわかりにくい表情を少しばかり変化させ「実らない、のか」と呟いた。
「よく聞く迷信の類ですよ。実際のところ統計なんかがあるわけでもないし、大体……」
「……それは困る、な……」
 ぽつん。
 リンハルトの言葉を遮るでもなく、独り言のように零された言葉。それに驚いて、リンハルトの喉は引き攣る。つらつらと続くはずだった弁論は音にならず、呼吸だけが白を纏って冬の空気に溶けた。はく、と唇だけ動かしたリンハルトを見遣り、ベレトは首を傾げる。
「リンハルト?」
「……、いえ……なんでもありません」
「そうか?」
「はい」
 どうして言葉に詰まってしまったか、なんて。彼に「初恋が実らなければ困る理由がある」と理解してしまったからに他ならない。

 *

 あれからしばらく。リンハルトはつつがなく——と言っていいのか甚だ疑問ではあるが——学生生活を送っている。ルミール村での一件は最悪の一言に尽きたし、未だに少し思い出しては眉を顰めてしまうのだが。
 士官学校の空気はと言うと、浮かれている。浮かれきっている。それもこれも、今節はガルグ=マク大修道院の落成九九五年を祝う周年祭の節。舞踏会の準備に皆、浮き足立っているのだ。あとは、漏れ聞こえてくる女神の塔の噂とやらも拍車をかけているらしい。
 興味がない、と一蹴していただろう。以前のリンハルトなら。
 だが、今は違う。
 あの塔での逢瀬を望みたい人物がいる、のだ。

 だからと言って誘う文言が思いつくわけでもなく、そもそも勝算があるわけでもなく。当日になっても結局声をかけられぬまま、リンハルトはひとり、騒がしい舞踏会の会場をすり抜けるようにして女神の塔へと登った。
 ぽっかりと浮かんだ月と煌めく星々は夜空を彩り、確かに眺めがいい。こんなところで逢瀬でもすれば、雰囲気に流されてあの噂を信じてしまいたくなるのも納得がいく。残念ながらリンハルトは約束を取り付けてはいないので、逢瀬の相手はここにいない。
「はあ……。先生の初恋の相手、ねえ」
 叶えたいほどの想いがある相手。それはどんな人物なのだろう。
 もしかしたら。この塔にその相手と登ってくることも、あるのだろうか。それならばここで待ち伏せて、せめて相手の顔を拝むのも一興かもしれない。まあ、その瞬間にリンハルトの失恋が確定して、初恋は叶わないという言説の信憑性が高まってしまうのだが。
 そんなふうにぼんやり考え事をしていると、こつん、こつん、と石の階段を登る足音が聞こえてきた。誰か、来る。その足音はどうにも聞き覚えがあるような気がして、それから——どう聞いても、一人分しかなくて。珍しく、心臓の鼓動が鳴り止まない。
 こつん、こつん、こつん。
 足跡が止まって、目線が合った。相手が驚いたように目を見開く。ベレト=アイスナー。彼はひとりだった。
「……先生、遅いですよ」
 揶揄うように、口を開く。瞬間、見開かれた瞳はゆるりと弧を描いて、口許が笑みを浮かべた。続いて聞こえたのは「ごめん、遅くなった」なんていう、くだらない冗談の応酬。
 ああ。こんな気持ちかな。初恋が叶わないと困る、なんて、思ってしまう心は。

 このときはリンハルトも浮かれていて、まさかベレトの叶えたい「初恋の相手」が自分だったなどとは、思いもしなかった。

 *

「で、先生。初恋が叶った感想はいかがですか」
「わからないことだらけで、余計に困る」
「ははっ、そうですか。それならよかった」
「何故」
「貴方の初めてと最後を、僕が独り占めできるってことでしょう?」
「それなら俺も、お前のことを独り占めできるな」
「そうですよ。ふふ、よかったですね」